今年の読書メモ43冊目から59冊目をなんらかのくくりごとに振り返る企画の第2回。
47冊目。「米海軍で屈指の潜水艦艦長による『最強組織』の作り方」(東洋経済新報社/L・デビッド・マルケ/kindle)。
自他共に認めるマネジメント下手、それが私だ。
そもそも自分が組織というものに嫌悪感を抱いているため組織化も組織の維持も発展も満足にできない。
有能な人間たちが集まるだけではものごとに方向性も推進力も生まれないということは分かっているのだが、分けても有能な人間というかいわゆる西欧型のリーダーがリーダーシップを発揮して組織を引っ張っていくというイメージが頭に浮かぶと吐き気がする。
そこにははっきりと、生理的な嫌悪がある。
会社員を始めたころは「組織」というバンドを組もうと考えたぐらい組織のことをバカにしていたし、組織というコンポーネントと折り合いのつかない自分のこともバカにしていた。
何がそんなに気に入らないかというと、ひとつには組織というやつが完全なフラクタルにはならないところが嫌だ。
強力なリーダーがいればその他がフォロワーになるというのはいい。
しかしそのリーダーが失われればその次のフォロワーがリーダーになり、あるいは組織が3つに分割されれば新たな組織のなかで比較的強いリーダーシップをもった者がそれぞれのリーダーになり・・・・・というようには、リーダーシップは相対的なパワーとして継承されていかない。
実際の世の中は圧倒的なリーダーと、リーダーのマネがうまいヤツと、圧倒的なフォロワーで構成されている。
つまりリーダーシップを語ることは、同時に無数の永遠なるフォロワーの存在を認めることなのだ。
これは僕の世界観に反している。
人は最終的に「自分一人の組織」にまで分割されたときにはおのずと自らのリーダーになるはずだ。
それが人は根源的に自由であるということだ。
だが実際には、世の中には自分一人のリーダーにすらなれない人間がごまんといる。
こういう人間は自由を怖れ、自由に目をつぶる。
一人にされるのは闇に放たれるのと同じだと感じ、文字通り闇雲にリーダーを渇望する。
これが圧倒的なフォロワーだ。
他方、こうしたフォロワーを利用する連中がいる。
これは圧倒的なリーダーか、あるいはリーダーのマネがうまいヤツにも簡単にできる。
こういう奴らはただひたすらにフォロワーでいたい人間を集めて彼らのうえにリーダーシップを振るう。
そこにやがて数が力をもたらす。
すると今度は明確にリーダーのマネがうまいだけの奴らが力の分け前にあやかろうと群がり始める。
こいつらは純然たるフォロワーとは異なり、そこそこのリーダーシップを行使するのでより毒性が強く、下品だ。
こうして組織は力のリークまたはトリクルダウンだけを原理として自己実現的に膨張し始める。
これが人類に悲劇をもたらすほとんどすべての問題の根源的なメカニズムだと僕は信じている。
そこには組織の存在がある。
よかれと思って(あるいは何も考えずに)リーダーたらんとする有能な者がいる。
力を欲してすり寄る似非リーダーたちがいる。
そしてただ寄る辺が欲しいがためにリーダーを求める無明のフォロワーたちがいる。
その全員を、僕は憎んでいるのだ。
組織にかかわり、それを構成するすべての人間を。
そしてそいつら全員がそいつら自身と全人類のうえにもたらす無数の悲劇を悼みながら、僕は昇給の申請書に決裁印を捺すのだ。