1番のバスに乗ってハーバード・スクウェアへ行く。自宅からは15分程度だ。
キャリアとしては無限の彼方にあるハーバードは、物理的にはこの程度の距離にまで近付いた。MITに至ってはそのさらに手前だ。
「俺にとってMITは通過点に過ぎない」
つぶやいてみたが、何の反応もないままゴミのようなツイートと一緒にTLを流れていった。
パンケーキフリークのメッカ・IHOPでキチガイじみた定食を食べたあと、いつもの韓国スーパーまで半マイルほどを歩いた。
僕の暮らすバックベイにくらべ、ケンブリッジは味わい深い物売り屋が多い。
ハーバードのお膝元だけあって、道端の本屋もバーンズ・アンド・ノーブル(早晩ひとびとの記憶にその名をとどめるだけの存在になるだろう)の呆けたラインナップとはまったく趣を異にする書棚を編集している。
元・米国務長官にして民主党大統領候補の座を手中に収めようとしているヒラリー・R・クリントンの手記“HARD CHOICES”(邦題「困難な選択」)を原書で購入。
もちろん日本のkindleストアで邦訳もすでに上下分冊が出ているが、ここは英語のトレーニングとして邦訳の存在を無視しているわけだ(本当は邦訳版もダウンロードした)。
それもこれもヒラリーが予備選で「社会主義者」バーニー・サンダースを破り、本選でドナルド・トランプを抑えて大統領の座を射止めることを早くから僕が確実視していたからに他ならない。
いまからこの大部の回顧録を読んで女史の政治的センスを大統領就任に先立って学ぼうというのだから、これでドナルド・トランプを悪く云う理由がひとつ増えた。
ハーバードの本屋で唸ったのは、ヘンリー・A・キッシンジャーの“Diplomacy”が3冊並んでいたところ。
これは政治史か何かのクラスでテキストに使われてるからに違いないが、日本では絶版で古本しか手に入らない状況だ。

- 作者: ヘンリー・A.キッシンジャー,Henry A. Kissinger
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
- 発売日: 1996/06
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「外交」はフランスのリュシリュー枢機卿以来、20世紀にいたるまでにみられた数々の世界政治の局面・人物を取り上げて戦略論を論じるパワーポリティクスの教科書だ。
大学の3年生になったとき、僕がなんとか潜り込んだのは、その年から非常勤で教鞭を執られていた有馬龍男先生のゼミだった。
ハーバードで日本政治史の講座を持っていたところを呼び戻され、外務省でアメリカスクールのバリキャリとして要職を歴任された有馬先生は、その後大学院でも僕の指導を引き受けてくださるわけだが、こちらはあっけなく半年で僕が中退する。
学部のゼミはまさにキッシンジャーの「外交」を講読することが軸になっており、僕も何度か発表をしたが、白状すれば全部は読んでいない。
ただ、引っ越しを繰り返すたびに必ず持って行く「まだ読んでない本」というのがいくつかあって、もっとも古くから移動を繰り返している書物のひとつがこれだということは、なんとかギリ申し上げておく。いまボストンにもある。
当たり前だが有馬先生の言葉にはいくつも心に残っているものがあって、これは学位ももたない僕の貴重な財産なのだが、「外交の成否を決めるのは、結局のところ人間同士の思いやりに尽きる」というのがもっとも印象的だった。
これを我々一般市民が額面通りに受け取るわけにはいかないが、「結局のところ」という言葉に力点をおきながら政治家や外交官の回顧録を読むことには価値があるのではないかと思う。
もっとも、先生がイギリスの外交官について話したというのはついぞ記憶にない。
生涯であと200回は言及する予定のジョン・ル・カレがわりと最近出した「われらが背きし者」という小説がある。
これは冷戦が終結したので「ここからは独立採算(!)な」と云われたイギリスの諜報機関が、ロシアマフィアの足抜けを手伝うことで、その隠し資産を巻き上げようという無さそうでありそうな筋書きなのだが、僕の好きな一節はこれ。
「それについては、われわれの言うことを信用してもらうしかない」
「あなた方の組織の言うことを?」
「当面は信用してくれ」
「何を根拠に?あなた方は、自分の国のためなら平気で嘘をつく紳士たちですよね?」
「それは外交官だ。われわれは紳士ではない」
「では、保身のために嘘をつく」
「それは政治家だ。われわれはまったく違うゲームをしている」
ブリカスwww
失礼。
ボストンでは唯一になる行きつけの居酒屋があって、知人とよろしくやっていたらオーナーがやってきて教えてくれた。
「エズラ・ヴォーゲル先生がいらっしゃってますよ。よろしければご挨拶されてはどうですか」
背筋が伸びた。
エズラ・ヴォーゲルといえばご存じの通り、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で日本の高度成長が世界のパラダイムに変化をもたらす可能性について考察を加えた米国きっての知日派社会学者だ。

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どうやらハーバード大学のとあるフォーラムがお招きをしており、そのささやかな打ち上げが行われているということらしいが、またとない機会なのでご尊顔だけでも拝みたく思い、図々しくも引き合わせをお願いした。
ウィキペディアによれば今年86歳をお迎えになるはずの先生は矍鑠として、当たり前だが見事な日本語で応じてくれた。いかにも日本通らしくサッと出てきた名刺にはカタカナで「エズラ・ヴォーゲル」とあった。
あわてて自分も汚い名刺を差し出した僕は、ところで酒が入ると多少の英語ができる。
「大学では戦後日米外交を専攻しまして、アリマ先生にご指導をいただきました」
「アリマ…タツオ・アリマか?そうかそうか、彼はハーバードの同窓だよ!」
「存じ上げています。先生のお話もたくさんうかがっておりまして。
私も論文では先生の研究にたくさん言及させていただきました」
「おお、そうか。タツオはいまはどうしてるのかな?」
「存じ上げません」
「…そうか」
話はそれだけだったが、まさか直接お話しするようなことがあるとは夢にも思わなかった大家とのカンバセーションは、2015年の僕のハイライトだった。
これはおそらくエロ漫画の巨匠・山本直樹先生に直接サインを乞うてお応えいただいたあの日以来の感激だったといっていい。
思いがけず話が弾んだのに喜んだオーナーは、先生がお帰りになるときにも知らせてくれたので「今日はお話しできて嬉しかったです」と握手を求めたが、先生の酔眼はもうお前が誰だか分からないと告げていた。
残念だが当然だ。
さて、白状すれば僕はエズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を読んでいない。
だから論文で先生の研究にも言及していない。
だが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は 3冊も持っていて、そのうちの1冊はやはりボストンにある。「読まなければならない」という意識だけは絶えたことがない証拠だ。
エズラ・ヴォーゲル先生そのひととの出会いが、「菊と刀」とならび(といっては失礼なのだろうけれども)日本研究のメルクマールとされる名著(繰り返すが、読んでない)をひもとく機会としてこれ以上ないものだったことは間違いないが、それからはや半年経ったいまもまだ、僕はこの本を読んでいない。
明日から読む。

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