アメリカだかで、娘が自殺したので残された携帯を親が漁ったところ、「匿名で質問ができるSNSサービス」に、クラスメートと思しき匿名のユーザーたちから質問の名を借りた罵詈雑言が寄せられており、こうした「いじめ」を苦にした自殺であるとみられているという報道があったのはもう何年も前のことだ。
「必要は発明の母」というが、本来は悪意こそがその称号にはふさわしい。
なにかが必要になったとき、それを発明で乗り切ったという経験をお持ちだろうか。
だが誰かに悪意を覚えたとき、自分のなかから驚くばかりの創意があふれだすのを感じたひとは少なくあるまい。
最近いちばん気に入っている発明がこちら。
ロシア連邦の犯罪人一時収容施設での拷問「黒ドルフィン」姿勢。これをされるのは殺人等を犯した重罪人やテロリストのみだと言う話。#ロシア#刑罰pic.twitter.com/Np3lFIbD7I
— それでもソ連bot+ (@cccp2017) 2017年12月22日
この手のネーミングからは、ある種の立場におかれた人間の可能性を感じさせられる。
質問をいただいている。
以下にお答えする。
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いつもネットでは大変お世話になっております。
ご指摘のシーンはおそらく批評というよりも放言に近いものだと思われますが、それには自分の気持ちを伝えたいということよりも、「しっぺ返しを覚悟するなら表現の自由はここまである。うまくすればしっぺ返しもない」ということを伝えていきたいという思いがあります。
デリカシーや思いやりは人間社会に欠くことのできない尊いものですが、同時にこうした「云っちゃう自由」を圧するものであることも忘れてはなりません。
僕はデリカシーや思いやりを重んじながら、同時にそれを無力化する作用もまた社会には必然であり必須であると信じています。
つまりデリカシーや思いやりだけで築かれた社会があるとすれば、その実情はかなり邪悪なものであろうと考えているということです。
したがってこれは原理的に挑発ですし、「煽り」であると自覚もしています。
ですからリスクはいつも意識していますし、怯えてもいますがそうしたコストを負うことこそが責任だとも思います。
おもいやりにあふれたコスト0の発言ばかりが行き交う社会の裏側で、目的を持った奴らが着々と準備をしているというのが僕の悪夢の本質だといってもよいでしょう。
「王様は裸だ」という叫びが告発したのは決してひとびとの愚かさだけではありません。
多くの言葉は的外れで、ただ人に嫌な思いをさせるだけかもしれない。
けれども大切なことを暴くのはデリカシーや思いやりの役割ではありません。それらはむしろ隠蔽によって社会を維持しているのです。
だからこそ自分の発言にコストを払う用意のある人間もまた同じように、社会にとって欠くべからざる存在なのだということを考えてほしいという思いは強いです。
実際ネットに限らずしっぺ返しに遭うこともしばしばあり、つらいですが文句をいう筋合いにないのは当然のことです。
今後ともどうぞよろしくお願いをいたします。
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今後もこのスタイルでお答えしていくのかどうかは未定だ。
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