新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

暮れない午後のサボテン。

あれから何年が経っても朝六時の歌舞伎町は最悪だ。

くたばりかけた夜の口から吐き出されてきたヤクザやホストやそのどちらにもなれない奴らが通りや路地へとあふれていて、どこへと消える様子も見せずにたばこを吸っている。ヒールの女はどれもバッグと紙袋の紐を握り、タクシーを止めようとして変な歩き方をしながら車道へと出ていく。

夜も九時ならあれほど綺麗になったのかと目を見張るような歌舞伎町が、いまもこんなに変わらないのだということがこの時間にはわかる。ほんの少し前までギラギラと輝いていたはずの彼らもみな、朝の光のなかでは年相応にくたびれた姿でとっくに終わった今日の落としどころを探している。

カタギでない、とはそういうことだ。

 

長く暮らしていた西新宿のマンションは窓から見える隣の部屋がホストの寮になっていて、その部屋にはカーテンがなかったから、休みの日なんかは昼に起きると向こうの部屋ではまだ子どもといってもいいような男たちがゴソゴソと床のうえから起き上がり、ボサボサの頭で着たままのワイシャツをパンツに押し込んでいるのが見えた。

僕は僕でそのマンションにはウエダという後輩とふたりで巣くっており、ウエダは家にいるときには自分の撮った写真のデータをずっと整理し続けているだけの人間だったから、僕が起き上がって「飯」と云うとすぐに(つまり着替えずに)カメラのストラップを引っかけて起き上がった。*1

裏手の高級ホテルはオフィス階から降りてくるサラリーマンを当て込んで地階に大きなレストラン街を擁しており、だいたいの場合、僕たちはとんかつ屋の「さぼてん」で休日の昼飯を食った。

決してこちらの顔を覚えようとしない店員の運んできたすり鉢の底で煎りごまを摺る。

ひとつ挟んだ向こうのテーブルあたりで隣人とおぼしきホストの一群がほとんどさっき見たままの姿で飯を食っているということが多く、こちらも一週間の仕事と酒で疲れ果ている僕は黙々と飯を食いながら彼らの話へ聞くともなしに耳を傾けた。

三十五年間、自分の食事を写真に記録し続けることでイグノーベル賞を受賞したドクター中松に感化され、自分も同じことをやるという無限に独創性の少ないプロジェクトに取り組むウエダはカツカレーへ向けてシャッターを切ると、あとはぼーっと写真のことを考えながら口を動かしていた。*2

栃木に帰りますよ、向こうのテーブルで新人のホストが云っていた。お母さんからメールとかよくあるんすよ、なにしてんのとかごはん食べてんのとかって。帰ってなにやるとか分かんないですけど。

ホストたちはだいたい背中を丸め、皿をのぞきこむようにしながら箸を使った。そして人が話しているとき、ほとんど口を挟もうとしなかった。

なんかこの仕事全然やりがいとかないじゃないすか、どこまでオンナにカネ使わせるかとかって、あといくら出せんのとかってどっかで作らせていくら払わせてってやってもあとに何にも残りゃしないし、なんか溜まってくだけなんすよ。こいつそんでどうすんのかなって、このあとこいつどうなんのかなって思って。疑似恋愛なんかなんにも残りゃしねぇし、なんか好きとかいわれて会ってても楽しくもなんともねぇし。

ここはオフィス街だから、休日の昼間は何時になっても客足はなかった。ガランとした店内は向こうに見える厨房の入口でのれんの前に店員が立っているだけで、ホストの話す声は高い天井に吸われてはそこで小さなエコーを残して消えていった。

「売上いくらとかいわれてもぜんっぜん嬉しくないっすよ。なんかもうやりゃやっただけイヤな感じなってくだけだし」

キャベツのお代わりいかがですかと、鉢を抱えた店員が尋ねた。お願いします、と僕は答えた。

……さん、なんか……になんかすげぇキレてたじゃん?

ああ、あれ……さん、なんか……さんと話してて……

店員が戻っていくとホストたちの話は変わっていた。

小さな1LDKに雑魚寝する彼らに共通の話題は、そのあともずっと店の話だけで客の話はほとんどなかった。

数年の間、ウエダがたまに芋を茹でる以外にはまったく料理というものをしなかったうちの部屋ではコーヒーも淹れられないから、食事が終わるとそのまま僕はホットコーヒーをとり、また黙ったまま天井を見上げてたばこを吸った。

ごちそうさまです……と誰ともなしに店員へ声をかけながらホストの一団が店を出ていったあとで、その頃まだガラケーを使っていたウエダがそれをひっぱり出し、はははっとひとり小さく笑い声をあげた。

「どうした」

「いや、母親にメールしてたんすよ。今日はさぼてんで飯を食いますって。そしたらいま返事がきて、『よかったね』って云ってるんで……うちの母親にとって、さぼてんは昔からものすごく良い店ってことになってんですよね」

行こうか、とたばこを消して席を立ち、勘定をすませて帰ると、窓から見える隣の部屋はいつも空っぽだった。

部屋へ帰るとウエダはまたもとのとおりベッドに寝そべって自分の撮った写真を検分し始めた。

僕はソファに腰掛け、何も映っていないテレビを前に今日はこれからどうしたものか、考えていたのだと思う。

映画も見ない、本も読まない、新聞もとらない、そんな年月だった。

やがて日が傾いて、もういちど酒を飲める時間がやってくるまで、何をしていたのかはどうしても思い出せない。

*1:だが多くの場合、ウエダはベッドに寝ているあいだからストラップをかけていた。

*2:なぜ分かるかというと、「いま何考えてた」と訊くたびにウエダはそう答えたからだ。