新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

叶えられた祈り/エイジ・オブ・イノセンス

世界のなかでどの街に暮らしたいですか、という質問に答えるのは存外に難しい。

どの街にもその街の暮らし方というのがあって、誰にだって「好きなように暮らせる街」などはまず存在しないからだ。

僕にとればサイゴンは恋人で、香港は愛人で、新宿はいまやいい齢になった「初めてのひと」といったところで、これほど月日が経ったいまもサイゴンはいつも去りがたく、香港は人目を忍ぶようにビルの陰を歩き、そして新宿の街が知っていることのなかでいちばん恥ずかしいのは、あの頃僕が本気だったということだ。

その点、四年も暮らしてまもなく去ろうかというボストンには特に思い入れもなく、スパッと割り切れるというか、ようやく僕もまともな恋愛をしたということなのだろう。

考えてみると四年も暮らせば腰掛けにしてはやや長いということになるものの、最初からいつか帰国することは分かっていたから必要なものも最小限に、どうしても要るならとにかく安くて捨てやすいものを選んで買うようにしてきた。いまボストン最後の四ヶ月をわずかな荷物とともに家具付きのアパートで過ごしながら、ふつうのひとはいつもこんな風に恋愛をしてきたのだろうなと思う。

あなた方はみんな、器用で美しく、無傷で、残酷だ。

 

最近、とりわけ自分のことを「無神論者」と名乗るようになっているが、これは自分のことを云うよりもむしろアメリカ人のクリスチャニティというものを見極めたいという思いからこうしている。

信じられないほどの利己心と愚かなまでの親切さ、そのどちらがアメリカ人の本質なのだろうという、いつからか生まれた僕のテーマになんとか年内で一定のケリをつけたいということだ。

夏の終わりに引っ越した先のアパートは、かねてより日曜日にはたまに礼拝へと足を運んでいた古い教会が建つ丘の中腹にある。

日曜の朝になるとこうした教会へは様々な人種や国籍の、それこそ老若男女が大勢集まってきて聖域で神妙に説法を聞いたり、それがロビーへ中継されているスクリーンに向かって車椅子から「オウ、イエイ!」と叫んだりコーヒーを飲んだりしているのを見るのが好きだ。日本でも雨の投票日に国政選挙の投票所へ子連れの若い夫婦が足を運ぶのを見るなどすると思わず涙禁じ得ないが、こちらはその気さえあれば毎週見られるのでもっといい。

だが正直に云えば、引っ越してからこちら自宅アパートのランドリーがあまり使えないので、僕は日曜日の朝を教会ではなく現代アメリカの神殿、つまりコインランドリーで過ごしている。

少し前に海外の希少な古銭、いわゆるアンティーク・コインを使ったマネーロンダリングの話が出ていて、この本を書いたひとを紹介されたりしたもので調べてみようと思ったら、サラリーマンがコインランドリーを経営しているブログばかりが出てきた。海外からの旅行客が多いからなのだろうか。日本でも少しコインランドリーの需要が高まっているようだ。

だがあるべき姿としてはワンルームでも多くが室内(または少なくとも室外)に防水パンを備えていて洗濯機が文字通り一家に一台の白物大国・日本とは異なり、ボストンのアパートにはまず各戸に洗濯機を置こうという発想がない。日曜日の朝はこれも老若男女がコインランドリーに集い、神妙に小銭を投じて辛抱強く宣託を待っている。

いま通っているコインランドリーは件の教会がある丘の反対側にあって、両替機はポンコツで紙幣を入れても五回に一度しか動かないし、だいたいは五ドル札しか受け付けない。これはやはり党派を問わず現代のアメリカがかろうじて受けいれることのできる唯一の大統領がリンカーンだからなのだろう。だがそのくせ、どの機械もはじめに "Whites" "Colors" を選ばなければならず、屈辱に震える指で僕は "Colors" のボタンを押す。するとお湯が出ない。そんなことをしているとリンカーンが足りなくなり、私は持ってきた半分を洗えないまま、また丘を上り下りしてアパートへ帰ることになるのだ。

教会の建つ丘は教会そのものを含めてボストンでも有数の観光ルートに含まれており、ど寒いなかでもよほどの雪でない限り、毎日のように観光客が詰めかける。

冬山へ三日ぐらい行けそうな荷物を両手に抱えてふうふう云いながら丘をくだる僕に、白髪のアングロサクソンたちが声をかけながらゆっくりとすれ違っていく。

「洗濯物?」

「おや、洗濯かい」

「おはよう、気を付けてね」

「ずいぶん大きい洗濯物だね」

「でも、私たちはアメリカ人よ。ご一緒しましょうと誘うことで有名なのよ」

     「天地創造」(ドン・デリーロ「天使エスメラルダ」所収)

このアメリカ人の無邪気さこそが各地で無用な介入を生み、ソ連を崩壊させ、フセインカダフィを殺し、果ては大量の難民に地中海を渡らせたのだ。

アメリカ人は疑いのない善意がいかに凶暴であるかに気付いていない。ともすればアメリカの国土は広すぎて、都合よく現実を切り捨てることが昔から容易であったことも関係していると思う。あるいは昔からアメリカには「現実」というものが存在しないのかもしれない。

端的に浅い奴らだと云っていいだろう。それで語弊があるなら深い奴らと呼んでもいい。

 

四年と少しの時は僕をやや老けこませたが、ボストンはあの頃とまるで変わらない。

綺麗だな、と思うことはいまもあるが僕がここにいる理由をボストンのなかに見つけ出すことはできなかった。

もしかしたら、多くのひとにとってアメリカの街というのはそういうものなのかもしれない。

一日いちにちと別れのときを待ちながら、僕たちはお互いに驚くほど言葉少なだ。

天使エスメラルダ: 9つの物語

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