イチローが日本人プロ野球選手としての最多安打記録を更新しつづけている。
しかしそれにしても「最多安打記録」と「サーターアンダギー」は似ている。
僕はこの手の聞き間違いを愛す。
むかし、夜の国道へ合流して東京方面へ帰ろうとしていた僕のために、脇道の信号が赤へ変わるのを助手席から見てくれていた当時の彼女がぽつりと云ったことがある。
「・・・・・赤にならない」
僕はてっきり彼女が「パパにならない」と云ったものだと思いこんでひどく動揺する。
思わず訊き返して誤解が解けたあと、クルマのなかには愉快なきまずさが残っていたのを覚えている。
ことほど左様にこの世の素晴らしいことのほとんどは、この手の誤解や勘違いでできている。
御年十八で東京へ出てきて以来の十有余年、僕はこうした心動かされるできごとをおびき寄せるためにこそ酒を飲み続けてきた。
できることなら明日が予定通りにこないよう、大変な思い違いをするよう、大切なことほど忘れてしまうよう、もとがきまじめな少年だった僕は酒に協力を要請したのだ。
缶ビールの詰まった段ボール箱を肩にかついで意気揚々と上石神井のワンルームへ帰ってくる当時の僕は、現在の僕のいわばビギナーといった姿をしている。
市民社会のモラルで希釈された酒であるビールとの蜜月は長かったが、やがて20歳を過ぎてしばらくした頃、経済的な問題が僕をより安価でピュアなアルコールの極北へと追い立てる。
スーパーマーケットの棚に並ぶ安物のワインからウィスキー→ジンのバトンタッチはほぼ玉突きと云ってよかった。
そして24歳を間近に控えたある日、僕は敗血症の診断を受ける。
「まぁ現代のひとがあまりかかる病気じゃ、ないねぇ」と医者をして云わしめた敗血症とは、それでも術後の患者や高齢者をけっこうな確率で葬ることのある病であった。
「あなたは・・・・・お酒は飲むの?」
ふとペンを止めた医者は、カルテから目を上げずに尋ねた。
こちらは40℃近くまで熱をあげて命拾いにきているのだ。嘘をつくような特段の理由もなかった僕が自分の酒量を赤裸々に語ると医者は文字通り、げえぇっという声をあげた。
「そのペースで飲み続けていると、あと3年で抜けられなくなっちゃうよ、キミ」
7年経った。
あの医者の言葉はたまに思い出したが、正直もう無理かもしれないという思いもあり、いまさら酒をやめようとはしなかった。
そしていよいよ今年の1月、僕の身体は音を立てて壊れた。
「チャンスはもう一度だけでいい」。
それなりに酒をやめようとしていたらしき21歳の日記は悲壮なフレーズで終わっている。
僕の連続記録はここで終わる。
思考自体ろれつの回らぬ状態で、ぐらぐらと世界を揺らして隙間をつくり、傷つけあう悲しさですらつまみにして飲み続けた10年間がここで断絶することになる。
数回の断続的な「禁酒」を経て先週末、僕は1ヶ月の完全なる酒断ちに手を染めた。
まじめに酒を飲み始めて以来の13年間でもっとも長い没交渉だ。
今日で4日目。
ここ2ヶ月で6回の禁酒失敗という助走をつけた僕にとって、4日間の酒断ちなどはもはやなんでもない。
21時まで仕事をしたら電車に揺られて家に帰り、腐りかけた豚肉をあぶってショウガ焼きを作って食った。
7回目のジャンプ。今日のところはその程度だ。