5月2日にひっそりと刊行された「ネトゲ廃人」を読む。
果たして電車の中吊りをチラとみただけで何も知らないまま購買にいたる私は最近、あらゆるマーケティングの餌食になっているが、それについてはまた改めて語る。
結論としては、さして読む価値のない書物であった。
察するに筆者もまた、はしがきにおいてゲーム業界の知己を誇らしげにあげつらい、また自身の手になる文章の著名なる掲載誌をならべてみせるあたり、たいした人物ではなかろう。
まず「ネトゲ廃人」(この存在と、またそれが問題であるという認識には私も異を唱えるものではない)というタイトルに「これは問題ですよ」という結論をもってくるという上段の構えをとりながら、取材が通り一遍の聞き取り(と観光に毛が生えた程度の韓国出張が一度)に終始しているあたり、実際に筆者がこれを深く掘り下げるべき問題だと捉えている節が見あたらない。
よってというか、まあこれがこの姿勢によるものなのか筆者生来の気質によるものなのかは定かでないが、取材対象と、それを通して迫るべきテーマへの掘り下げは浅く、非常に表層的なレベルに終始する。
たとえて云えば、あらかじめ定められた紙数にいたるまで、手持ちの結論を薄くのばすことに腐心した学生のレポートそのものである。
もっともネットゲーム(あるいはオンラインゲーム)や、そこに生息するハードゲーマーたちの存在自体をご存じないという向きにとって、いわば観光客としてこうした文化をガラス越しに一瞥する(「あ、あっちにラッコいるって!」「え、どこどこ?」)ためのガイドブックとしては三流程度の役には立とう。
そういう意味ではこの本にもやはり価値がないとはしない。
ただしオンラインゲームに心をとらわれ、自らが切れば血の出る肉体を伴ってある存在であることをすら忘れかけたプレイヤーたちを指して「廃人」とまで称するのであれば、本来著者の迫るべきはそうした次元にとどまることを許されない。それはたとえば私必携のまとめサイト「VIPPERな俺」に収録されているスレッド「ネトゲの元廃人ちょっと来い」( http://news23vip.blog109.fc2.com/blog-entry-543.html )をのぞいただけで多くの人が首肯せざるをえないところであろう。
私の考えるところでは、オンラインゲームにはおそらく精神的な依存・脅迫による強い中毒性がある。
そしてそれがオンラインで行われるプレイヤー同士の「リアルな」コミュニケーションに発していることもまた、間違いあるまい。
死期を迎えた病人は自分の手のひらをしげしげと見つめ、「これが自分の身体か・・・」と妙に納得したような顔をすることがある、それは肉体と精神とを別々のものに感じ始めているからだと語っていたのは「宗教学B」の安西先生だった(私は学生時代、安西先生の講義を三度とったが一度も単位をとれなかった)。
思えば宗教はそれらを二元にとらえ、精神の行く末に重きをおくことで肉体の苦しみからの解放を提示するものである。
そしてまた同時に、宗教もやはり強い中毒性を有することには注意が必要だ。
オンラインゲームに没入するプレイヤーたちは肉体の苦しみを忘却することで解放へと向かっている。
ある側面からしてそれが「救済」であることを否定しうるか。
彼らを「廃人」と称し、彼らの奪還を語る資格をこの社会はもちうるか。
本当の廃人はもはや語らない。
自選によって「廃人」を集め取材した浅はかな著者のプローブは、この遙か手前で途絶えている。
- 作者: 芦崎治
- 出版社/メーカー: リーダーズノート
- 発売日: 2009/05/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 7人 クリック: 141回
- この商品を含むブログ (73件) を見る