新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

生き延びることだけが僕の趣味だった。

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リトル・ダンサー」をほぼ10年ぶりにDVDにて観直す。


80年代イギリス。産業革命以来の栄華を誇った炭坑は、すでにその時代を終えていながら完全には役目を終えられず、産業としては極限まで先細りながら凋落していくという、もっとも多くの巻き添えを伴う過酷な運命を辿っていた。

親子数代にわたり炭坑で働き、炭坑町に家族と暮らす炭坑夫たちの世界はもとより狭く、炭坑以外の職場は想像もつかなかったため、解雇と賃金カットに対しては度重なるストライキで抵抗するしか術がなかった。

しかし石炭の需要がいよいよ先細るなかではオーナー側の姿勢は強硬で、男たちは自分と家族の将来へ漠然とした不安を強めながらも自分たちを取り巻く広大な世界の現実から目をそらせ続けるのだった。


変わり続ける世界は自分たちにも変わらなければならないというメッセージを送ってくるが、「なぜ自分たちが」という無益な問いに足をとられて身動きのとれなくなっている大人たち。

そこへ突然変異的に生まれたダンスを愛する子供。大人たちはそこに漂う強烈な「外界」の匂いに激しい拒否反応を示すが、「あなたたちにはない未来が、この子にはある」と諭す指導者と子供の情熱により、やがて目を開いていく。

時代は終わりつつある。だが、子供を道連れにはしないという誇り高い選択肢がまだ、自分たちにはある。


云うまでもなく「フラガール」(2006年)のもととなったストーリーだが、どちらが先だのという議論には意味がない。

炭坑は世界中で栄え、それが放棄されたのもまた真実であって、「時代は変わり、承諾しない者を置き去りにする」というルールは、運悪くそこにいた多くの人々の生活を破壊し、より多くの繁栄を社会にもたらしたのだ。

いずれの物語においても、親が子供の瞳に映る未来を見付けた瞬間、同時に自分たちの運命を悟り、迷わず子供たちを、その未来に向けて送り出してやるシーケンスがもっとも、泣ける。


だが構造的にはあまりと云えばあまりなお話かもしれない。

物語における「子供」はいずれも「この国のこれから」のメタファーであるが、「我々には未来がありません。でも」この国には未来があるんですと云って抗夫とその家族が自分たちの運命を甘受したわけではあるまい。

ここには生き延びたこの国(や彼の国)が、切り捨てた過去への罪悪感を「親への感謝」にすり替えているきらいがある。


まぁ、いい。


ところで子供たちだ。

いずれの作品においても彼ら/彼女らのダンスに向けた情熱と才能には並々ならぬものがあり、その自己実現の有様には三十路の男も舌を巻く。

思えば僕の子供の頃には夢などというものはさしてなく、幼稚園の誕生パーティで「なりたいもの」という質問があったので「ぷろやきゅうのせんしゅ」と答えはしたが、実際には少年野球への誘いを「休みの日は、休みたいから」というだけの理由で断っていた。

しかし思い起こせば子供の頃というのはそれでも存外に忙しく、何のかのと親や教師の云うことを聞いていると、それだけで毎日は飛ぶように過ぎ、気がつくと大人になっていた。

クソ真面目で多忙な少年時代の報償は親を初めとする皆様による賞賛で、それはそのまま「人様よりはちょっとマシな未来」へ続いていると折に触れてほのめかされたが、なんとか一流の大学を卒業するとそこは未曾有の就職氷河期で、学歴の如何にかかわらず、僕の就職は決まらなかった。

「こんなはずではなかっただろう」と振り返ると、あれやこれやと褒めそやした大人たちはすでに老いており、僕の問いかけに知らぬ顔をした。

このときのことを、僕と僕の世代の人間は生涯忘れないだろう。


だがこれも「裏切られました」というだけの話で、炭坑町の悲劇となんら変わりがない。

2つの映画の教訓は、歴史の法廷は「君たちは間違っていなかった」と認めてはくれるが賠償を命じてはくれないということであるから、今からでもいいのでバレエかフラダンスを始めるしかないのだ。


そこで僕はバレエを始めることにした。