ボストンに住む俺のあいだに深刻なコインランドリー不足に対する不満がたかまっている。
お洒落ストリートに住んだおかげでアパートの地下にランドリーがなく、洗濯カゴを抱えて1km弱歩いた先のExecutive Laundryという店まで行かねばならない。
井戸まで半日かかるアフリカの村みたいな風情だ。
しかも名前はExecutiveだが、そのくせオンボロのコインランドリーはどちらかといえばスパイク・リーに出てきそうなたたずまいと客層で、昨日は脱水を終えた洗濯物を乾燥機に放り込みながら大声でそこにいない誰かと会話しているオバさんがいた。コインが詰まるといつもイヤホンでなにか聴いている青年がシャッフルのリズムで近寄ってきて先のとがったナイフを突っ込み、ガチャガチャガチャッとゆすって「おらよ(メーン」っつって直してくれる乱暴なところもある。
まぁなんだかんだいい店だ。
洗濯機のボタンもまた、スパイク・リー的。
まだ読んでないが今週の東洋経済。
堤実果チャン(前も書いたが勝手にチャン付けしているだけなので、怒られたら直す)以外誰のことも想像できない特集をやってる模様。
こないだだって白人警官が「アフリカ系アメリカ人」の青年を射殺したとかいって暴動が起きたりしているのであまり無神経なことを云うわけにはいかないが、それでも二昔前なら「アメリカの分裂」といえば人種問題がもたらすそれのほかには考えられなかったのだから、それだけ人種問題というか白人社会に挑戦する非白人人口という構図は後退したということができるだろう。
それももっともな話で、世の推計のなかに人口動態の推計ほど正確なものはないと聞くが、増え続ける移民の存在もあってアメリカでは白人が絶対マイノリティ(過半をくだる)に転落する時期というのがもうずっと前から予言されている。現在では2050年あたりということだ。
※ なお2050年といえば日本とベトナムの人口が1億人あたりでクロスすると予言されている年でもある。
またこのあたりへ向けて非白人系の大統領がいずれ誕生するであろうことは必然とされていたのでオバマの登場はやや早すぎたとはいえ決して意外なことではなかった。いずれヒスパニック系の大統領が生まれることも、これは文字通り歴史的必然である。
2016年の大統領選では共和党にまだパンチのある候補が現れていないためすでにキャンペーンを開始したヒラリー・クリントンがリードしているように見えるが「オバマ後遺症」は根深いとみられ、民主党候補は相応の苦戦を強いられるだろう。
だが仮にヒラリーが大統領の座を射止めるとすれば、アメリカは初のアフリカ系アメリカ人大統領につづき初の女性大統領を頂くことになり、多様性への貪欲さが歴史を乗り越えていまもこの国を変容させ続けていることを世界中のひとびとにまざまざと見せつけることになるに違いない。
しかしこの場合、ついにアメリカの断絶を分けるものは遺伝的・生物学的差異ではなくふたたび経済的・社会的差異へと戻りつく。皮肉なことにこれは成熟しきったアメリカがもう一度生まれ直さなければならないことを意味するだろう。
民主主義というのは市民の誕生に続いて生まれたのである。
市民というのは何かといえば、いわば中間層だ。
経済的な独立を獲得した中間層が「税が重い」とかいろいろ云って革命を繰り返した挙げ句に共和制が生まれたりしたわけだ。
経済的な「分裂」とは要するに中間がいなくなるということであって、こうなると民主主義は機能しなくなるはずである。貧困層というのは庄屋にカネを借りる小作人みたいな存在であるから、生活に追われ政治的な意思を持てない。自動車工場で働くひとは他で働けるアテがないと感じればこそ、自動車産業の再興というイシューに沿った投票行動を行うほかはない。この時点で実際に政治的な主体となるのは産業であって、ひとではなくなっている。
いいかえれば「初のアフリカ系アメリカ人大統領」「初の女性大統領」のあとに「初の貧乏人大統領」が生まれることがあり得るのか否か、そうした政治的革命によって流血革命や内戦といったいつものリボルブ機構がガチャリと回転するのを防ぐことがかなうのかが、今後のアメリカ100年史における最大のテーマになるということなのだろう。
まぁ日本にとっても他人事ではなく、ピケティの著作が「蟹工船」的ブームを呼んだりするのもあがり始めた煙のうちだと心しておかねばなるまい。