成田から海外へ発つ際、出国手続きの前にうどんを食うのはもはや日本人の基本的な作法である。
一方、昨今では国内線を利用する際も飛ぶ前にうどんを食う俺が増えていると聞く。
羽田空港第2ターミナルはゲート脇にある「ANA FESTA」の立ち食いうどんを食うがため、何週間も前から執拗にANAの空席待ちをする俺もいるそうだ。
大変によい関西風のつゆである。
松山は飛行機に乗ると東京から1時間半。
これは朝の混雑時に赤羽から新宿まで車で通勤するのにかかる時間に等しく、かくて高度な交通手段は軽々と僕らの身体を何百キロからの遠方へ運ぶが、心がついてこられない。
距離は超えたが相応な時間が経過していないため、ここが新宿ではないということを心が理解しておらず、どうにも奇妙である。
よって迎えは車が空港まできたが、用を済ませた帰りにはこれを丁重に断って、単身電車で松山市内へ戻ることにする。
かつて「地下鉄デジタル説」を唱えたバーテンダーがいた。
曰く地下鉄は駅と駅との間が暗闇であるがゆえにこれは「駅か、否か」のデジタル空間であり、対して地上を走る電車は駅と駅との間に「駅と駅との間である何か」が隙間なく敷きつめられたアナログ空間である。
地図を見れば「まさか」と思うほど短い距離を、特急列車が40分もかけて走る。
柵も盛り土もなく田畑のなかにただ敷かれただけの線路を走る列車の窓から見る景色は期待通りにひどく意外であった。
つまりそこに歴然たる「景色」があるということが。
膝に広げた大好きな「週刊現代」をめくる時間も惜しく、僕は食い入るように窓の外を見ていた。
畑。人家。山→トンネル→山。松の木。水田。人家。人家。畑。畑。人家。松の木。山→トンネル→
海が見えた。
「あ、海だ」
待っていたわけでもないのにまるでシンプルに飛び出した言葉は口から出たかと思うほどはっきりと頭のなかに響いた。
かつてレオス・カラックスは「あなたにとって理想の映画とは」との問いに「見終わった後も、ずっと終わらないで欲しいと思えるような、それ」とこたえた。
40分の旅は何時間続いてもいいと思えるような、それだった。
窓外に「景色」の存在しない日常は、たとえそれが地下鉄でなくても、やはりデジタル空間なのだと思い知る。
ひとり夜の街をうろつき回り、鰹のたたきと長なすの揚煮にとろろをかけたやつを食う。
こればかりはデジタルでもアナログでもなく、微分的にうまいと思った。
以上、坊主が書きでもしたような今日の日記である。