ビアガーデンという言葉の暴力的な響きに身を震わせよう。
「夏の風物詩」などという腑抜けたまやかしに気を取られてはいけない。
「ビア・ガーデン」すなわち「ビール・庭」という直截的なメッセージにはむき出しの暴力を感じなければならない。
そこにはビールしかない。夏も屋上も関係なければ、自由も尊厳も無力だ。
それはたとえば風俗店が店先に「売春」という看板をかかげていたときの、圧倒的な、暴力的な存在感に似ている。
ビアガーデンが極めて暴力的な要請としてそこにあり、夜景だの食べ放題だのとは無縁であることを見落として「夜風にあたりながらビールなんて飲みたいスねー」などとのほほんと口にする者の愚かさはもはや哀れを通り越し、野蛮の域である。
なぜなら「文明の始まりは父殺し」であるならば、文明こそは暴力を前提にして初めて生まれたシステムだからだ。
したがって「野蛮」とは暴力を指すのではなく、むしろ暴力を忌避し、隠匿することだと云わねばならない。
暴力に対して無知であることなどに至っては、もはや問題にもならない。
たとえば「いたずら」は強姦だ。
それは無知や無邪気さのなせる小さな反則ではなく、べたべたの悪意にまみれた暴力的な性行為だ。
そのとき我々には悪意の烙印が焼き付いた「強姦」という言葉を選ぶ責任と義務がある。
文明的であるということは暴力の存在を認め、その自由を許さないことだ。
米大リーグをスタジアムで観戦中、打球に当たって失明したと球団に数億円の賠償を求めた裁判が、原告の敗訴で終わった。
被告側の弁護士
「野球はボールをバットで強く打つことによって成立するスポーツである」
かの国の常識にはときに、暴力を否定することに意味はなく、暴力に意味を与えることもできないが、だが暴力はそこに存在するため、常にスペースは空けておかなければならないという、文明的な理知を感じる。
侍と侍の携える刀が暴力を示す記号であることは論を待たないが、侍の時代であった300年間、日本は戦争らしい戦争を経験しなかった。
他方、明治維新が侍という暴力を駆除することに成功したとき、この国は暗黒の近代である戦争の世紀へ向けて走り出す。
「併合」を占領だと、「解放」を侵略だと指摘しなかった新聞各紙は戦後、おのおの腹を切って詫びた(が死ななかった)。
彼らに欠けていたのは緊張感だ。
言葉を恐れる者だけが、言葉の力を用いることができる。
そして言葉の力を用いる者がするべきことはたったひとつ、文明の内奥から噴出し続ける暴力と対峙することだ。
その均衡だけが文明を維持し、我々を決定的な破壊から遠ざける。
誰も手を付けようとしない豚トロが鉄鍋のうえで縮み、炭になり、やがてタールになった。
「ラムづくし」コースに紛れ込んだその異物が七輪のなかへしたたり落ちて消えるのを見送りながら、僕は今後風俗を「売春」と呼ぶことに決めた。